讃岐 広島へ 帰る 

期間: 2015年(平成27年) 10月22日(木) 〜 10月23日(金) 


いきさつ 及び 讃岐 広島 紹介編

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◎讃岐 広島へ帰ろうと思った訳
*いきさつ
 私は、香川県丸亀市に属する、瀬戸内海にある、広島という島の青木浦で生まれて、小学校6年生の時に、東京は葛飾に引越しをして、現在に至っています。

 この間、高校生の時までは、広島の青木にある家は叔母さんが住んでいましたが、その叔母さんも亡くなり、今や青木の家は空き家になっています。
その後、社会人になって一度その空き家に戻ったことがありますが、もう40年以上、広島には戻っていません。

 広島に住む近所の人の話では、かって住んでいた家も道に面した物置の壁が崩れているとは聞いていましたが、何しろ、東京から瀬戸内海への島に行くには時間がかかるため、管理上の問題はあるとは感じていましたが、止むを得ず、そのままにしてきました。

 それが、今回、面倒な不動産の登記名義も変更したので、古い記憶のある兄や新しく相続することになる甥たちと共に、広島に帰り、家の場所の確認とお墓の場所の確認をすることにしました。

●讃岐 広島という島
 多くの人は、岡山県と香川県の間にある瀬戸内海の広島といってもピンとこないし、単に「広島」となると、広島県を指すので、広島県と区別するために、瀬戸内海にある「広島」は「讃岐(さぬき) 広島」とも呼ばれます。

 讃岐 広島の位置は、以下の場所です。



 拡大すると、以下のようになります。

 

 讃岐 広島は、丸亀市の北約12.5Kmの海上にあります。塩飽諸島の中で、11.66Kuと最大の面積をもつ島です。広島にある王頭山(おうとうざん)は、標高約312mで塩飽諸島の最高峰です。
●讃岐 広島の歴史
 古代より瀬戸内海は海上交易の要所で、この讃岐 広島も含めた海域も隣の島「本島」を中心に、「塩飽(しわく、又は しあく)水軍」と呼ばれる水軍を組織して海上通行権を握って支配していました。
 まあ、水軍といえば聞こえが良いが、海上通行料を払わない船から見れば海賊ともなるわけですが。

 戦国時代(15世紀末から16世紀)には、群雄が割拠するなか、日本統一を目指す豊臣秀吉が、塩飽水軍を利用するため、塩飽にある七つの島「本島(ほんじま)、広島、与島(よしま)、櫃石(ひついしじま)、手島(てしま)、高見島(たかみしま)、牛島(うしじま)」の船方:650人に対して1,250石を与えて、自治統治を認めました。
 
 秀吉の後は、徳川家康の時代となる訳ですが、家康からも御用船方として扱われ、秀吉の時代と同様に自治統治が認められました。

 

 このため塩飽諸島では、江戸時代には、中国地方や四国地方のどこの藩にも属しない自治組織が本島の年寄を中心に活動していました。
この自治組織は、武士制度での大名でも小名でもないので「人名(にんみょう)」と呼ばれています。

 塩飽の島民は、米の運搬や船大工をし、人名株を有する人は、近隣の漁業権も持っていて、豊に暮らしていたようです。

 塩飽水軍の中心であった本島には、塩飽勤番所の跡があり、そこの資料館には、秀吉や家康の御朱印状があるとのことです。

 江戸時代の当初は、廻船問屋として、塩飽の人々も活躍し栄えていましたが、1700年代中頃から大坂の商人が廻船業を営むようになり、塩飽の島人は、廻船業を奪われ、水夫や船大工、また普通の大工として生活していました。
 
 幕末に太平洋を横断した徳川幕府の咸臨丸の水夫の50名の内35名を塩飽の船人が占めており、これらの人々の墓は、塩飽の島々に残っています。

 この「人名制度」は、明治時代に入るまで続いていました。

 島で多く見られる香川姓の由来としては、戦国時代末期、長宗我部(ちょうそかべ)氏に敗れた香川一族と長尾一族の落人が広島の南岸に住みついたとされます。

*2015年11月30日 追記:塩飽諸島の歴史を調べていたら、「宮本常一とあるいた 昭和の日本」 の第5巻(東京 農村漁村文化協会 出版)の後ろのほうに、人名制度や塩飽の人々の記述がかなりありました。ご参考までに。
●讃岐 広島の青木について
 私が生まれた、讃岐の広島には、浦々ごとに合計7つの部落があります。
 現在は、広島の行政の中心になっています、江の浦から左回りに、釜の越(かまのこし)、甲路(こうろ)、そして青木、それから市井、茂浦(もうら)、最後が立石です。
 今では、島を一周する道路も整備されていますが、浦々は、峠によって切り離されていて、子供の頃には、他の部落を訪れることは、稀でした。

 

 私が生まれた青木は、古くから良い石が出るので、石材業が盛んでした。
 そこで、青木の石は、大阪城壁に使われたり、讃岐の金刀比羅宮:こんぴらさん、の基礎石などにも使用されています。
 また、青木の石は、硬質の花崗岩ですが、やや青みがあり、加工がし易く、また劣化がし難いなどの特徴から、墓石として有名です。

 

 古くから続いた石切によって、良い石が採れる心経山(しんぎょうさん)は、空海(弘法大師)の修行の場と言われ、その山の半分が切り取られたため、山頂にある弘法大師を祭ってある大師堂にも影響が出てきたため、現在心経山からの石の切り出しは、中止されています。
 
 

 一時は、岡山県の水島コンビナートの埋め立てで多くの石が使用され、賑わった石材業も、今は、輸入石に押されて、以前の賑わいはありませんでした。

 また、塩飽諸島の「人名制」との関係では、私たちの本家にあたる「おもて」には、秀吉の「ご朱印状」もあると子供の頃聞いています。
 他に歴史的なものとしては、青木には、弥生時代の遺跡もあります。

 
◎讃岐 広島と青木の過去と現在
 過疎化が進んでいるとは思っていましたが、過去20年間でどのような変動があるのか、平成7年、平成17年と平成27年の広島と青木の世帯数と人口を、丸亀市役所 秘書広報課市民相談室 のご協力を得て調べてみました。

 

 このデータによると、この20年間で
 広島の人口は、641人から216人と マイナス425人と66%も減少し、
 同じく、青木においても、人口は、平成7年には、190人もいたのに、平成27年では51人となり、なんと139人もいなくなり、73%という高率で人口は減少しています。過疎化また高齢化も進んでいるということです。
 
  この現状に、丸亀市も広島町も手をこまねいて傍観しているわけではなく、島おこし策として、
  *学生に島に住んでもらう 
   http://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/jirei/kagawa/37202/2014-0307-1650-12.html
   もあります。
 
◎みなさんも、広島の山に登る、夏には海水浴に行く など、歴史とロマンに溢れた広島や塩飽諸島を一度訪れてみてはいかがですか!
 ご紹介したように、讃岐 広島や塩飽諸島の島々では、正しく、都会の喧騒からは完全に切り離された、静かな「とき」が流れています。
 心地よく、また優しく打ち寄せる波の音を聞きながら、浜辺で昼寝をする贅沢さがあなたを待っていますよ!

 

 白い砂浜が続く、讃岐 広島の青木です。

 丸亀市の観光案内もあります。

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